『本日、クリスタリウム司書・は病気のため欠席致します。貸出返却等ご利用の方は近くの編纂局員まで』
クリスタリウム司書室の扉に貼られていた紙を見て、クラサメは思わず従者の方を見た。
従者もどこか驚いたようにクラサメを見ていて、主従は顔を見合わせる形となった。
数秒後、顔を見合わせていた主従は今一度、扉の紙を見る。
紙の続きにはこう書かれていた。
『なお、・個人にご用のある方はカヅサ・フタヒト氏まで』
「その人選はどうかと思うぞ…」
クラサメは思わずごちた。
Bless You
風邪を引いたの事を知っているかもしれない。
そう思いクリスタリウム内にある研究室を訪れたクラサメを、研究室の主はにこやかに迎え入れた。
「君のことかい?」
「知ってたのか?」
「クリスタリウムを開けるのは君の仕事だからね。彼女が来ないと研究室に入れないんだよ」
クリスタリウムの管理は編纂局の管轄であり、局員は別口からクリスタリウムに入ることが許されている。
局員ではないカヅサは鍵を持つことが許されていないので、クリスタリウムの扉が開くのを待つしかない。
そして、クリスタリウムを開けるのは、司書であるの仕事でもあるのだ。
「今日来てみたら君じゃない違う人が鍵を開けていたからものすごく驚いたよ。――はい」
目を丸めていたクラサメにカヅサはマグカップを差し出すとクラサメは驚きの表情を元に戻し、マグカップを受け取った。
珈琲色の水面が、かすかに波打っているのが視界に入る。
「…あいつが体調を崩すなんていつぶりだ?」
まるで自身に問い掛けている様な小さな声がカヅサの耳に届き、カヅサはクラサメに気付かれぬように小さく笑った。
一見平然とやって来たかのように見えるクラサメの姿に長年の付き合いの賜物か、カヅサは彼が動揺しているのを確かに感じ取った。
(君が風邪引くの久しぶりだもんね)
カヅサ自身も初めて聞いたときは驚いたのだ、クラサメの受けた衝撃は何となく解る。
しかし、わざわざ伝えて自覚させるような事でもないと思い敢えて何も言わないは友人としての気遣いでもあり。
(クラサメ君自身が気付かない気持ちを感じ取れるって言うのは、結構楽しいし嬉しいものだからね)
態と楽しんでいる節がある故だ。
悪趣味と思われようが、感情を表す事を滅多にしなくなった友人が露わにする感情を見る事ができるのは微笑ましい。
そんな思いを胸に秘めながら、カヅサはが最後に寝込むほどの風邪を引いた日を探すために優秀な脳から記憶を遡る。
「確か、候補生の時に大きなのを食らって寝込んだことがあったよね。それ以来じゃないかな」
「そんなに前だったか?」
クラサメが驚いた様に顔を上げたのを見てカヅサは楽しげに笑った。
「君、そう言う意味では丈夫だからね。4組候補生であった以上、医者の不摂生なんて言わせないって言うのが君の信条だったみたいだし」
は体が丈夫なのか、程度の小さいものは引けど滅多に寝込む事はなかった。
体調に異変があればすぐに医務局に飛んで行き、薬を貰ってきて初期のうちに治していた。
そんなの姿を思い出してから、カヅサは目に憂いの光を湛えて、細めた。
「今年に入ってから色々あったからね。急激な環境の変化に伴う疲労やストレスが一気に来たって感じじゃないかな。
…本人は違うって言うだろうけど、やっぱり不安も抱えてただろうし」
「……そうだな」
白虎との間に始まった本格的な戦争。
元候補生としても頻繁にとは言わないが候補生の支援として戦場に出ることが増えた。
生死を賭けて戦う恐怖。
見知った者が死ぬかもしれないと言う不安。
急激な変化は候補生のみならず朱雀全土の環境を変えた。
いくら体が丈夫であり管理をしていたとはいえ、それに耐えきれなかったのだろう。
「クラサメ君も気を付けなよ」
「解っているさ」
重苦しい空気が場を支配し始める。
気配に敏感なトンベリが慌てたように主人とその友人を交互に見やるが、本人たちは小さな存在に気付く事なく重い空気を纏わせていく。
困った。
トンベリがそう思ったか思わないかと言うその時、空気の流れを変えに来たとでも言うように、研究室の扉が開いた。
開かれる事が滅多にない扉が開く音に驚き、クラサメとカヅサが弾かれたように扉へと目を向けると、
「あ、いたいた。お邪魔するね」
扉の入り口でエミナがにこやかに手を振っていた。
重い空気は彼女の華やかな雰囲気に一掃され、研究いつはいつもの怪しさを取り戻していく。
「やあ、エミナ君。君がここに来るなんて珍しいね。珈琲飲むかい?」
先程の憂いは吹き飛ばされたのか。
いつもの調子に戻ったカヅサが持っていたカップを小さく掲げると、エミナは笑って首を横に振った。
「折角だけど、これからすぐに出なくちゃいけないの。珈琲はまた今度ね」
「そっか、残念」
「どうしたんだ?」
しょんぼりと残念そうな表情をするカヅサの隣でクラサメが用件を問いかけると、あのねとエミナは二人を見つめた。
「二人とも、これからの予定ってどうなってる?」
エミナの問いかけにクラサメとカヅサは顔を見合わせた。
彼女の問いかけの真意は解らないがとりあえず、答えることにしようと二人の視線は語っていた。
「僕はこれから武装研の会議に出なくちゃいけないんだ」
「あれ? 今日だったっけ?」
武装研は数ヶ月に一度会議が開かれ、そこで研究の成果を報告しなければならない。
エミナが首を傾げ目を瞬かせるとカヅサは苦笑いを浮かべて答えた。
「そうだよ。これに出ないと研究費が出なくなるからね。あまり乗り気じゃないんだけど、どうしても行かないと」
「そっか。そうなるとカヅサはダメ、か…クラサメは?」
残念そうに溜息を一つ吐いた後で、エミナは期待に満ちた視線をクラサメへと変えてきた。
なぜ、そんな目を向ける。
そう思いつつも、すぐに今日残りの仕事を思い起こす。
「作戦は入っていないし、今日は普通に授業をして終わりだな」
エミナはその言葉を聞くやいなや、ぱあっと顔を輝かせてクラサメに近付いた。
「じゃあ、クラサメ。お願いできないかな?」
「一体、どうしたんだ?」
近付いてきて顔を覗きこむようにクラサメを見上げるエミナを見て何故彼女がそんなに嬉しそうなのかを問いかけると、
「あ、ごめん。言ってなかったっけ」
いきなり理由も解らずにお願いされたら困るよね。エミナはクラサメを見つめて口を開いた。
「が風邪引いたのは知ってるでしょ?」
「ああ」
「わたし、仕事が終わったらの様子を見に行こうと思ってたんだけど、急に別の仕事が入っちゃって…それでね。クラサメかカヅサに様子を見てきてほしいなって…」
「なるほど…」
エミナとが住んでいる部屋は近い。
のことを一番に知り――もしかしたらが連絡をしたのかもしれない――看病に行ったのだろう。
「解った。看てこよう」
「ありがとうクラサメ。――はい」
嬉しそうに微笑みエミナが手を差し出すとクラサメも手を差し伸べた。
鈍色の鍵がエミナの手を離れ、クラサメの手の中に落ちる。
「容態はどうだった?」
鍵を見てから、クラサメは今一度エミナを見る。
病人の現状が解らなければ、対処のしようがない。
「意識はしっかりしてたよ。熱があるからいつもよりぼんやりして、ふらふらしてたけど」
「病人だからね。薬はどうする? 持っていくかい?」
エミナとクラサメの会話を聞きつつ横から会話に入ってきたカヅサの言葉を聞いて、
「遠慮する」
「の部屋にある常備薬で十分だよ」
「………酷いよ二人とも。解ってたけど」
すぐさま拒否の答えを出す二人を見て、カヅサは肩を思い切り落とした。
一日の授業と全ての仕事を終わらせて、クラサメはCOMMを個人回線に切り替え認証コードを入力する。
もしかしたら寝ているかもしれないと思っていると、
『うわぁい…』
掠れた、無気力な声が耳に入ってきた。
普段からは決して想像できない声にクラサメは思わず柳眉を顰めた。
思っていたよりも重体のようだ。
「」
『――――あ………クラサメ?』
クラサメの声が脳に届くまで時間がかかっているのだろう。
ぼんやりとした声がゆっくりと返ってくる。
「ああ。調子はどうだ」
『んー…ちょっと熱っぽくて、ダルい』
「そうか。…これから様子を見に行こうと思っているんだが…」
『…エミナは?』
「急な仕事が入ったらしい、鍵は渡されてあるから大丈夫だ」
『んー』
胡乱気な声が鼓膜を刺激する。
数年ぶりに聞く、いつもとは違うの声はクラサメに違和感を与えてどうにも落ち着かなくさせる。
「何か、持ってくるか?」
『お願い』
「なにが欲しい?」
『えっとね…』
間延びしたの声がしたその瞬間。
ぐうぅ。
小さな音をクラサメのCOMMは確かに拾った。
二人の間に沈黙が落ちる。
「――――相変わらずだな」
沈黙を最初に斬り捨てたのはクラサメだった。
呆れた口調になるのはこの際しょうがない。
しかしは呆れたクラサメに気付いているのかいないのか、楽しげに声を上げた。
『あはははは。いいじゃん、食欲があるのは良い事だよ』
「病人のセリフじゃないだろ」
クラサメの声に溜息が混じっていたのを聞き取ったのか、
『しょうがないじゃん。病気の時でも、お腹は空くの!』
は不貞腐れたように言葉を返す。
口調からの頬を膨らませている姿が脳裏に浮かんで、クラサメは小さく笑った。
「それはお前だけだろ」
大抵の場合、病気の時はあまり食事を取りたがらなくなってしまうが、は別だった。
具合が悪かろうが熱があろうが、食欲が無くなる事はまずない。
そのため病気になってもすぐに治るのだから確かに良い事だろうが、どうにも力が抜ける。
「リフレで何か貰ってくる」
『消化の良いので、お願いします。あ、あとね、』
「なんだ?」
『プリン食べたい。クラサメが作ったの』
思わぬ言葉にクラサメは目を見開くが、
「時間がかかるから駄目だ」
すぐに彼女の願いを却下した。
材料を揃え、一から作るとなるとどれだけの時間がかかるか解らない。
病人の様子を見に行くのに時間がかかる事はどうしても出来ない。
『……えー』
「今度作ってやるから、今は我慢しろ。リフレで貰ってきてやるから」
不満そうな声を上げたを宥めるように、言い聞かせるようにクラサメはゆっくりと言葉を紡ぐ。
自分でも無理を言っているのが解っているのか、もこれ以上言及する事なく素直に頷いた。
『うん…時間掛かるもんね。解った、また今度ね。約束だからね』
「解った。とりあえず、俺が来るまで少しでも横になってろ」
『寝てるかも知れないけど、大丈夫?』
「むしろ寝ててくれ」
『うん。ありがと』
二人はその言葉を最後にCOMMの通信を切った。
「……少し話しすぎたか」
掠れた声の病人相手に少し話し過ぎたかも知れないと内心で反省しつつ、クラサメは歩き出した。
違和感が未だにあるが、それでも間延びしているだけどいつもと変わらない彼女との会話にクラサメは心のどこかで安堵していた。
が目を開けると、彼女の視界一面は橙色に染まってた。
(ああ、もう夕方なんだ…)
そうぼんやりと思っていると、緑色の何かがの視界に入る。
あまりの不意打ちにが体を強ばらせたのは一瞬でその緑の正体が解ると、は緩く笑った。
「トンベリ」
トンベリはの顔をジッと見つめていてどこか心配そうに小首を傾げている。
は手を伸ばしトンベリの頭を撫でると彼は気持ちよさそうに目を細めた。
「あんまり傍にいると、風邪移るぞー」
ゆっくりとした動作でトンベリの頭を撫でながらは小さく苦笑を浮かべた。
果たしてモンスターに人間の風邪が移るかどうかは解らないが、それでも万が一移る事があれば、彼の主人は絶対に心配するに違いない。
なるべくそう言う事態は避けたいと思っているとの言葉が届いたのか、トンベリは自分を撫でるの手に擦り寄ってきた。
まるで大丈夫だと答えているような動作を見て、
(可愛い)
そうぼんやり思いながら撫でていると、何かを察したのかトンベリがの手から顔を離す。
トンベリがの部屋の扉を見るのと扉が開いたのはほぼ同時だった。
「」
扉が開くと共に聞こえてくる声。
「クラサメ」
はふらつく上半身を上げると顔を扉に立つ友人に向かって笑った。
へにゃりと笑うの頬は赤く染まっており、呼吸もかすかだが乱れている。
加えて鼻が詰っているのか、少し息苦しそうに見える。
「辛そうだな」
「まあね。鼻水が酷くないのが、不幸中の幸いかなぁ。詰ってるけど」
「咳は?」
「薬飲んでなんとかなってる感じ。とはいえ、関節はちょっと痛いし、熱もあるから起きてもきちんと立てないんだよね」
「エミナが言ってた通りだな…ほら」
トンベリがのベッドから降りるのを視界に入れながらクラサメはへと持っていた物を手渡す。
小さな容器からは玉子色の甘い匂いが漂っている――生憎と嗅覚が鈍くなっているには僅かにしか届かなかったが――それを見ては目を輝かせた。
「プリン…!」
「約束通り持ってきた」
「ありがと!」
熱で虚ろになっているの目が輝くのを見て、クラサメはマスクの下で口元を緩ませながら容器とスプーンを手渡す。
「気を付けろよ」
「うん」
緩慢に伸びてきた両手へしっかりと掴ませると、クラサメの手が離れる。
はいつもよりゆるやかにスプーンでプリンを掬い、口に入れる。
柔らかく甘い匂いと味がの味覚を刺激してきた。
「うみゃい…」
赤い顔でしかし幸せそうに頬を緩ませながらは呟いた。
風邪を引いていても幸せそうに食べる姿を見てクラサメも微笑む。
「良かったな」
「うん。クラサメ、ホントにありがとね。ワガママ言っちゃって」
「気にするな。病人なんだし、これくらいならワガママにならないさ」
「うん」
しまりなく笑うを見つつ、クラサメはそのままベッドの縁へと腰を落とした。
「朝と昼はどうしてたんだ? 薬を飲んだって事は何か食べたんだろ?」
空腹で薬を飲むと言う愚行を4組候補生であったが行うはずもないと確信している。
しかし、本人が自覚するほどにふらつく状態であるならばおそらく真っ直ぐに立つ事は出来ないだろう。
そう考えると、が台所に立つという姿は想像できない。
と言うよりもフラフラしているが包丁を持ったり火を付ける姿を想像するのが恐ろしいと言うのもある。
クラサメが何を思っているのかを想像で来たのか、は朝の出来事を彼に伝えた。
「エミナがお粥作ってくれてたの。朝はそのまま食べて昼は冷蔵庫に置いといてくれてたのを食べた」
「…………なんだって?」
予想だにしていなかったの言葉に、思わずクラサメは言葉を失った。
あの、エミナが、料理。
レシピを見て作っても何かが欠けてしまうのか、なんとも言えない味――しかし食べられない事はない――の料理を作り出す。
あの、エミナが。
「エミナが、か?」
「そう、エミナが」
「………頑張ったんだな、エミナ」
親友のために必死になりながらキッチンで奮闘していたであろうエミナの姿を想像して、クラサメは絞り出すような声を出した。
「うん。凄く頑張ってた」
実際にその場を見ていなかったが、それでも音だけは聞こえていたは、エミナの果敢な挑戦を賞賛した。
「食べるとき凄く不安そうな顔してたけど、凄く美味しかったんだよ」
エミナの挑戦と愛情が詰った料理は、とても美味しかった。
それを言ったときのエミナの安堵と喜びの表情を思い出しては嬉しそうに頬を緩めた。
緩く微笑むの笑顔はいつもと変わらない。
掠れている鼻声と頬が熱を持ち赤くなっているところ以外は。
赤い頬はそのままの体の熱さを伝えているように見えて。
クラサメはグローブを外すとへと手を伸ばした。
彼女の前髪を揺らしながらクラサメはの額へと自分の手を宛てる。
はクラサメの行動に目を丸めたが、それも一瞬の事ですぐに彼の手を受け入れると、そっと目を閉じた。
「………ぬるい」
額に広がるクラサメの掌の温度を感じては小さく呟く。
「いつもだったら熱いって思うのに」
「熱があるからな」
の額から手を離しつつクラサメはごく当たり前の理由を口にする。
掌から感じたの体温はとても熱かったのを感じながら、クラサメは無意識に熱の篭る掌を握り締めた。
目を閉じていたためその動作に気付かなかったは、目を開けると小さいながらも重い溜息を吐いた。
「クラサメの手がぬるく感じるとか、相当だよ」
「そもそも、の体温が低すぎなんじゃないか」
呆れ交じりのクラサメの言葉を耳に入れて、はムッと唇を尖らせた。
「低すぎとは失礼な。平熱35度は普通です」
「俺からしてみれば十分低い」
「相変わらず体温高いんだから。氷剣の死神が聞いて呆れちゃう」
ぷくりと頬を膨らませるに対して、器用に片眉を上げてクラサメは答えた。
「冷気が得意だからと言って体温が低くなきゃいけない道理はないだろ?」
「そりゃそうだけどさ」
「ほら、馬鹿な事言ってないでさっさと食べて寝ろ」
クラサメの視線はから彼女の手にしているプリンの入った容器に移った。
プリンはまだ半分ほど残っている。
「誰のせいで食べるの中断したと思ってるのさ」
「悪かった」
「素直に謝り過ぎ…!」
少し目を吊り上げてクラサメを睨む。
妙に真面目な表情を浮かべてを見つめるクラサメ。
そこまで言い合うと、二人は互いの表情を改めて見るとおかしいそうに笑い合った。
の食べ終わった容器をシンクへと持って行き、クラサメが再び部屋に戻ってくるとははベッドに横になり目を瞑っていた。
彼女の傍に行こうとしているのか、ベッドによじ登っているトンベリの姿を見て目を細めながら近付くとクラサメは従者の体を持ち上げ、の傍に下ろす。
トンベリは主人の顔を見て小さく頭を下げると、クラサメは優しくトンベリの頭を撫でて答える。
そうこうしているうちにベッドの重みが変わった事に気付いたのか、が目を開けていた。
「すまない。起こしたか?」
「ううん。目を閉じてただけだから、大丈夫」
「そうか。俺たちはそろそろ帰るが…」
「大丈夫。だんだん体調も良くなってきてるし。ご飯食べて薬飲めば、多分明日には良くなると思う」
一応明日は大事を取って休むつもりだけど。
そこまで言うと、は後ろめたさを感じさせる笑みを見せた。
「ホントは良くないと思うんだけどね、戦時中だし」
少しでも戦力が欲しいだろうこの状況で必要以上に体を休める事はどうにも心苦しい。
何より、どこぞの軍令部長の顔を思い出しは思わず顔を顰めた。
管轄は違えど、作戦中は軍の指揮下に入らなければならない。
そうなると必然的にどこぞの軍令部長と顔を合わせる機会が多くなるのだ。
正直、五月蝿い事になりそうで、億劫である。
が何を考えているのか、クラサメは何とは無しに悟りつつも大丈夫だと言うように彼女の髪を撫でた。
「しっかり治して出て来た方が良い」
さらりと、撫でられる髪が流れていくのを感じつつはかすかに頷いた。
「解ってる、候補生に移すわけにはいかないもん」
無理をする事で候補生たちに風邪を移す事の方がよほどの戦力低下であるし、戦争のせいで青春が謳歌出来る機会が極端に減ったであろう若人たちの時間を奪うなど
出来るはずもない。
そう考えればどこぞの嫌味も上手く受け流せると言うものだ。
「食事は冷蔵庫に入ってるから」
「うん。色々ありがと」
「ああ。早く治せよ」
「クラサメも、部屋に戻ったら移らない様に対処してね。長くいてくれたから、ちょっと心配」
「気を付けるさ」
「そーしてちょうだい。―――トンベリもありがとね」
はトンベリの頭を優しく撫でる。
トンベリもまたの頬にぺたりと触れるとベッドから飛び降りて歩き出した。
「それじゃあ、大事にな。また魔導院で」
「ありがと」
の笑みを見てクラサメは背を向け部屋の扉の横で待つトンベリを追うように歩き出した。
遠ざかって行く黒い背中。
(――――――帰っちゃう…)
そう思った瞬間、は遠ざかる背中へと手を伸ばしていた。
伸ばした手の先はクラサメの袖へと触れて、そのまま思い切り自分の方へと引っ張った。
ぐい。
進む方向とは反対の方へ力が掛かり、クラサメは驚いて力が掛かった場所を見て、目を丸めた。
白い指が黒い袖口を掴んでいる。
まるで引き止めるかのように袖口を掴んでいる指を見てクラサメはその指の主を見やれば、指の主であるもまた自分の行動に驚いているのだろう目を丸めていた。
帰ってしまうと思った瞬間に無意識で動いた手。
その行動の意味するところをようやく認識する事が出来たは苦く笑った。
「ごめん、ホントは良くないんだけど」
病人である自分の傍にいつまでもいさせるわけにはいかない。
そうでなくとも、長居をさせてしまったのだ。
指揮隊長――担当はあの0組だ――に風邪が移ったりでもしたら大変な事になってしまう。
しかし、去ろうとしたその背を見て寂しくなってしまった。
一人は寂しいと、思ってしまった。
体が弱り、思考もおそらく弱っているせいだろう。
(病気になるってヤッパリ厄介だな…でも)
はどうしてもその弱さを振り払う事が出来なかった。
「眠るまでで良いから、傍に、いて欲しいな」
ごめんね。
自嘲を含んだ笑みを浮かべるを見てクラサメは小さくかぶりを振った。
「いや、大丈夫だ」
「うん」
ありがとう。
眠りの吐息に混ざって出てきた言葉は、果たしてクラサメに伝わっただろうか。
そう考えながら、は眠りの園へと落ちていった。
すう。
目を瞑り呼吸が緩くなっていくのを見て、クラサメはが眠りに就いたのを悟った。
裾を掴んでいた指もまた眠った事で力が抜け、今にも落ちそうになっているのをクラサメはそっと掴む。
赤くなっている頬同様に掴んだ手もまた熱い。
クラサメはの手をほんの少しだけ強く握ると、彼女の手を布団の上に戻した。
「早く、良くなれ」
そんなに重い病気でなかった事に安心した。
しかし、声、笑顔、会話の全てに違いを感じて落ち着かなかったのも事実だ。
当然の事とは言えいつもの姿ではないを見て、クラサメは心から彼女の快気を願う。
「甘えられるのも悪くはないが…」
引かれた裾の力強さを思い出しながらの髪に指を伸ばし髪を撫でる。
それでも、あの真っ直ぐな意思を持った目を輝かせて自分の隣を歩いて欲しい。
そう思いながらクラサメは従者と共にの部屋を去った。
数日後に、いつもと変わらぬ笑顔が向けられるのを待ち望んで。
Fin
Back
あとがき
体調を崩した司書と看病と言うか様子を見に来たクラサメの話が浮かんできたので書いてみました。
というよりも風邪引いたので個人的に用がある人はカヅサまでと言う張り紙に突っ込むクラサメが浮かんだのが最初という。
そしてやっぱりオチが浮かばなくて苦労したと言う(爆)
クラサメの作ったプリン食べたいとか、無意識に袖を引っ張ったりするのは病人ゆえに思考が少し甘えたモードになっているからです。
そしてクラサメも相手が病人と言う事もあってちょっと甘やまかしぃになってる感じになってるような、なってないような(爆)
最初はプリンをクラサメに食べさせてもらおうかと思ったんですが、イイ年した友人同士でそれはないなぁと言う事で司書が自力で食べました。
2012/07/16