それは昔。

ずっと遠い昔の話。

長く永い絵巻物に綴られた、色鮮やかな哀しみの。

色褪せることなく想いは伝う。

 

 

 

泡沫

 

 

 

 

心地よい温かさだった。

砂漠のように乾いた暑さでも、雪国のように凍える寒さでもない。

「気持ち良い」

 蒼い髪を風になびかせながら、少女は微笑う。

こんな風土に見えるのは久し振りだ。

宿の一室。

寝る場所があるだけの、簡素な造り。

しかし、食事は外に出るので、別段問題は無い。

窓際に立ち、少女は振り返る。

一見、人の良さそうな笑みを浮かべた男が、相槌を打って頷いた。

「そうですね、静夜。休息にはちょうどいい」

「で。八戒サン、この手は一体?」

 掴み挙げられた手を眺めながら、紅い髪の男は口元を引きつらせた。

こういう時は、大抵ロクな事が無いと長年の経験が言っている。

そうして、また。

「いやだなぁ、悟浄」

 にっこりと微笑み、彼の咥えていた煙草を灰皿に押し付けた。

「お買い物日和だと思うでしょう?」

 八戒に敵わないことも織っている。

「……………エェ、トッテモ」

 悟浄が口を噤むには、充分過ぎたようだ。

休息云々はどうした、と言う暇すら与えてはくれなかった。

 

 

八戒に悟浄、おまけに悟空まで着いて行くと言って、

部屋は一気に静かになった。

静夜は窓際に腰掛け、町並みを見下ろしている。

2階の部屋は、案外見晴らしが良い。

クシャリ、と紙が潰れる様な音がした。

「どしたの、三蔵」

「煙草が切れた」

 言い捨てるように、彼は近くのゴミ箱に潰したケースを投げ入れる。

「おい、静夜」

「生理痛」

 彼が用件を言い終わる前に、即座に回答する静夜。

考えあぐねて、ようやっと言葉が吐き出される。

「…まだ何も言ってない」

「使いに行けってんでしょ。厭よ、腰が痛いもん」

「他に言い方ねぇのか」

「男ばっかりの旅に同伴してるのに、気にしてたってしょうがないじゃん」

 ころころと笑う彼女に、多少なりとも頭痛を覚えた。

確かに仕方が無い。

赤不浄の月のものは、健康な者ならば厭が応にも訪れる。

訪れるのだが。

「何、その顔。証拠見せる?グロイよ?」

「見せんでいい」

 余りにも気にしなさ過ぎる少女に、大きく溜息を吐いた。

仕方無く、立ち上がる。

簡単に身なりを整えると肩越しに静夜を振り返った。

「ついでに何か要るか?」

 彼の台詞に、何故か心奪われた。

少女は厭な胸騒ぎと共に、息を呑む。

 

 

 

―――何か、欲しい物があるか?

 

 

 

こちらを見たまま、黙り込んだ彼女に三蔵は怪訝そうに眉を顰める。

「おい?」

 呼ばれて、ビクリと肩を揺らした。

手の平にはじっとりと汗をかいている。

何だと言うのか。

理由が見つからず、静夜は曖昧な笑みを浮かべた。

「ごめ、ん」

 言いながら、早くなっていく鼓動が耳障りだった。

何を畏れているのだ。

訳も分からず、不安に駆られる。

「…林檎、欲しいな」

 何か言わなければ、そう思って口を開いた。

彼女の様子が普通でないことに気付きながらも、

彼は分かったとだけ言って、ドアノブに手をかける。

ドクン、と一番大きく心臓が鳴った。

 

 

「待って!」

 

 

自分が言った台詞とも思えず、静夜は口元を抑えた。

衝動的に言葉が紡がれた。

何を言っているのだろう。

自分の発した台詞が、とても遠くに感じる。

不安になることなど、無いと言うのに。

「何だ?」

 振り返って、三蔵は今度こそ訝しげに彼女を見やった。

違う。

呼び止めたかった訳じゃ無い。

けれど、何かを畏れる自分が居た。

 

 

「いって、らっしゃい」

 

 

だから。

無理矢理に笑顔を作って、手を振った。

 

 

 

 

 

 

 

薬を飲んだ所為だろうか。

非道く眠たい。

うとうとする瞼を必死で堪えながら、太真王夫人は窓の外を見やっていた。

「どうして、このような時に風邪などひいてしまったのでしょう」

 己の体調が優れない事が腹立たしい。

自分の織り得ない所で、何かが起こっている。

触れようとすれば、それは遠ざかり、触れてはならないと訴える。

このような立場でなければ、もう少し近しい場所に居られたかもしれないのに。

加えて、ここ数日の不調。

歯痒くて仕方が無かった。

熱っぽい頭がぼんやりと、考え事もさせてくれない。

風邪をひいた所為で、うんと苦い薬も飲まされた。

手元にあった書物は体に毒だと、全て持って行かれてしまった。

養生せねばならないのは分かっているが、

何もしないのは何かをしているよりも難しい。

「あぁ、もう」

 何処にもやることの出来ない苛立ちを声にしてみたところで、さほど変わりはしない。

そんな時、控えめに扉が開いた。

「太真王夫人様、金蝉様がお見舞いに見えましたよ」

 おっとりと、柔らかく微笑む女官に視線を投げて、睨みつける。

まぁ、そのようなお顔では笑われてしまいます、と女官はくすくすと笑う。

腹いせのつもりだったが、全く相手にはされなかった。

「何だ、思ったより元気そうだな」

「お見舞い来たよー!」

「静かにしろ、猿」

 賑やかしく入ってくる幼子に、彼女は嬉しそうに破顔した。

その保護者にも、寝台の横に掛けるよう勧める。

「貴方こそ珍しい。わざわざ、見舞いだけに?」

 体を起こそうとしたが、そのままで良いと言われ、素直に横になった。

顔を傾け、きらきらしい黄金の髪に目を細める。

「悟空が煩かったからな」

 溜息ついでに、隣の幼子に視線を落とす。

あからさまに頬を膨らませ、悟空は寝台の蒲団に顔を埋めた。

「金蝉も行きたそうにしてたじゃんか」

「喧しい」

 風邪もひいてみるものだ。

ふとそんなことを思う。

普段と違う周りが見える。

珍しく微かに頬を染める金蝉を見られただけでも良しとしよう。

摘んで来たらしい華を1輪、悟空は太真の前に差し出した。

「お見舞い、な」

「ありがとう」

 くすぐったそうに微笑む。

本当に心配そうな悟空の顔が、悪いとは思うけれど、とても嬉しかった。

「すぐに良くなりますわ」

「ほんとに?」

「ほんとに」

 幼子の手は、冷やりと冷たく、心地よい。

指先が、童の両手足を戒める枷に触れると、微かに顔を顰めた。

 

 

 

―――こんなもの、邪魔なだけなのに

 

彼女の表情に気付き、悟空は首を傾げる。

何でもないのだと、彼女は笑った。

「おい、そろそろ帰るぞ」

 不満そうに、立ち上がった金蝉を見上げた。

悟空の額を指で弾くと、太真から離れるように促す。

「天蓬が来る。それに、ヒトが居たら疲れるだろ」

「あら、今日はお優しいのですね」

 その台詞に、あからさまに顔を顰める。

彼らしいとすら思うので、今更咎めもしない。

「猿に伝染る心配はないだろうしな」

「へ?何?何で?」

「さぁな」

 半ば引き摺るようにして、悟空の手を引く。

苦笑しながら、彼女は小さく手を振った。

出て行く寸前、思い出したように、金蝉は肩越しに振り返る。

「何か、欲しい物があるか?」

 余りに突然のことで、しかも思いがけない言葉。

太真は思わず、え?と聞き返してしまった。

しまった、と感じても、もう遅い。

普通以上に意固地な彼が、もう一度同じ台詞を言うとは思えなかった。

それでも、かなり妥協したのだろう。

溜息ついでに、金蝉はぶっきらぼうに言い放つ。

「明日また、来る」

「またな、太姉ちゃん」

 恥かしいような、嬉しいような、不思議な感覚に囚われながら、

彼女は顔の緩みを抑えられなかった。

「林檎が、欲しいです」

 くすくすと笑いながら、いつもより静かに閉じる扉を見送った。

 

 

 

 

 

―――本当は、林檎なんてどうでも良かった

 

 

 

 

まどろみを打ち消すような騒々しさに、太真は不機嫌そうに目を擦る。

金蝉達が帰った後、眠りかけていたのだが、何やら外が騒々しい。

「何、なの?」

 耳を澄ましても、扉越し、しかも幾つかの部屋越しでは言葉らしい言葉は聞えない。

ただ、何故だろう。

胸騒ぎがした。

何をどう、と言われても分からない。

ざわざわと、厭な感じが襲い来る。

払拭しきれない不安を抑えつけるように、胸元を抑えた。

「ねぇ、誰か。誰か居りませんの?」

 上半身を起こし、ヒトを呼ぶ。

少しすると、女官が何事かと顔を出した。

「どうなさいました?」

「外が騒々しいのです。何かあったのでしょうか?」

 織らず、手が震える。寒気は、風邪の所為だと言い聞かせた。

「そう言えば。少々お待ちください、ヒトを遣りますので」

 言われて気付いたのか、外の方向を見やった。

落ち着ける為だろう。

女官は傍の水差しを傾け、器に注ぐ。

渡そうと器を差し出すが、彼女は受け取らない。

「それでは間に合わない。自分で行きます」

 傍らに掛けてあった上着を羽織り、寝台から飛び降りる。

慌てて止めようとしたが、間に合わない。

「太真王夫人様?!」

 気持ちだけが先走っていた。

覚束ない足元が、何度も捕らわれかけた。

寝巻きに上着を羽織っただけの格好に、行き交うヒトが振り返る。

そう言えば、髪は整えただろうか。

紅も差し忘れた気がする。

ずっと寝ていたのだから、顔が浮腫んでいるかもしれない。

どうでも良い事が浮かんでは消える。

どうでも良い事で、気を紛らわせようとしているのかもしれない。

そうでもしなければ、考えたくも無い事を考えてしまう。

何が間に合わないのか。

何を焦っているのか。

先程、別れたヒトの顔ばかりが思い浮かぶ。

何故。

何故。

どんなに問うても、答える者など無い。

 

 

 

 

直ぐに、明日になるのだと思っていたのに。

 

 

騒ぎを伝い、謁見の間まで辿り着いた。

忙しなく打ちつける頭痛も、今はどうでも良い。

天帝と地下の者が見える、神聖であるはずの空間。

けれど、それは何処にも無かった。

ヒトであったと思われる残骸。

夥しい血痕と体液。

響き渡る悲鳴と、混乱。

逃げ出す人々。

誰かを呼び止めようにも、声をかけることすら躊躇われた。

何が起こっていると言うのだろう。

目の前に晒された状況は、正しい情報など与えてはくれない。

何処までも澄み渡る、禍々しい気配。

ぞくり、と身の毛が弥立つ。

「だ、れ…?」

 突き飛ばされ、その場に尻餅をついた。

直ぐ傍を走り抜ける足に蹴飛ばされないように、両手で頭を覆う。

人々の合間を縫うように、ずっと向こうへと視線を投げた。

ちらちらと見える惨状。

誰かが何かを叫んでいる。

壁に柔らかい何かがぶつかる音。

同時に、何かが破壊された音。

何も見えない。

聴覚だけでは、限りがある。

這いずりながら、やっと開けた場所に頭を出すことが出来た。

ガラクタのように、打ち捨てられた人形がひとつ、転がっていた。

よく、見織った顔が。

「なた、く?」

 言いながら、ゆっくりと周りを見回す。

負傷し、お世辞にも無事とは言えない風体の2人の男。

見下ろし、不敵に笑みを浮かべる神。

傷付いた幼子を抱く男。

「…な、に?何、が」

 一体、何がどうして。

否、それよりも、何故。

疑問ばかりが浮かび上がる。

けれど、誰も答えてはくれない。

太真の姿が見えていないのかもしれない。

そのような余裕がないのかもしれない。

「こ…」

 

 

「走れますか、金蝉?!」

「見くびるな」

 

 

言うが早いか、彼らは謁見の間を横切り、あっという間に姿を消した。

 

 

 

 

―――置いて、行かれた?

 

涙が零れた。

頬を伝う温かいものに触れて、ようやっと、自分が泣いていることに気付く。

口を開こうにも、零れるのは嗚咽のみ。

傍に転がるナタクの骸に触れ、揺する。

生温かい血が、両の手の平を濡らした。

「ねぇ、ナタク。何をしているのです?」

 分かっている。

どんなに呼びかけようとも、その瞳に光宿らぬことなど。

「こんな所で眠っては、風邪をひいてしまいますわ」

 それでも、望んだ。

何気ない顔で、微笑み返してくれる幼子を。

見下ろす神を、縋るように見つめる。

「何故、泣く?」

 彼の神は問うた。

憐れみとも慈しみともつかぬ瞳で、静かに、ただ、問うた。

「泣いてなど、いません」

 感情の篭らぬ、抑揚の無い言葉を返す。

観世音は横に口を縛り、俯いた。

 

 

 

「見届けろ」

 

 

下から見上げても、陰になってよく表情が見えない。

彼の神が泣くとは思えなかった。

けれど事実、ほんの一瞬だけ曇った瞳。

「それが、俺達の役目だ」

 悠々とした笑みを浮かべ、直ぐにいつもの表情に戻る。

見間違いだったのだろうか。

考えながらも、涙が己の意思とは別のところで流れ続ける。

埃に塗れた長い髪が、肩から流れた。

襲い来る予感が、決して外れてはいないことが呪わしかった。

 

 

 

そう。

とうに織っていた。

 

 

 

 

 

次に見えるのは、終わりであることを。

 

 

 

 

「愚か、ね」

 

 

 

観世音は静かに頷いた。

 

 

 

「あぁ、愚かだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――私が望んだのは、林檎などではなくて

 

何とも、誰とも言わずに、ただ、欲したのは―――…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

目の前を、何かがゆったりと覆う。

淡く陰った気配に、重たい瞼を上げた。

金属がぶつかる音がしたかと思うと、扉が開いた。

ゆっくりと瞬きをしながら、そちらを見やる。

随分と寝惚けた顔をしていたのだろう。

入ってきた人物は呆れ顔で口を開いた。

「そんな所で寝てたのか。器用な奴だな」

「…うん」

 素直な反応に、溜め息を吐いてベッドに腰掛けた。

持っていた袋ごと、静夜に投げて寄越す。

手を伸ばして受け取り、中を覗けば目の覚めるような紅が目に入った。

「林檎…」

 ひとつ取り出し、じ、と眺める。

一向に食べる気配が無い彼女に、彼は顔を顰め、懐を探る。

買ってきたらしい煙草を咥えると、カチリ、と火をつけた。

「お前がいるって言ったんだろうが」

 白い煙が、天井へと立ち昇る。

つい、と三蔵を見やると、ぎこちなく笑った。

「そっか。そう、だったね」

「まだ寝惚けてるのか?」

 ここにいるのに、ここにいない。

心は何処か、違う場所に。

そのように感じた。

小さく首を振り、今度こそ微笑んだ。

「ううん、ありがと」

 柔らかく、朧げに。

月を思わせるかんばせは、彼女の所以を思い出す。

「三蔵」

 持っていた林檎を、彼に向かって投げた。

空いている手で受け取ると、三蔵は林檎から静夜に視線を移した。

 

 

 

―――私が欲しかったのは、林檎などではなくて

 

 

「おかえりなさい」

 

 

―――貴方と共に過ごす、この時間だった

 

 

 

 

 

 

想い、想うは泡沫の。

末はいづれにたゆとうか。

 

 

 

 

ぼんやりと、皆が寝静まった後、ひとり空を見上げる。

穏やかに、静かに、月を見上げるのは好きだった。

「…そっか。赤不浄の穢れだ」

 風に流れる雲が、時折、月を隠す。

雲の向こう側にあっても、尚、闇夜を照らす月の光に、敵うものなど無い。

静夜は、風に吹かれながら目を閉じた。

「黄泉平坂にでも、行っていたのかもしれないな」

 女は男よりも、黄泉に近い場所にいる。

己が腹にて命を宿し、己が身にて死を司る。

月のものを宿す今の体であれば、遠い想いを織るのも道理。

それは、過去やも織れぬし、未来やも織れぬもの。

けれどそれは、今ではない。

ここにある今ではない。

だからこそ、泡沫のようにして消え行くもの。

時間が経てば、忘れ行くもの。

きっと、明日になれば全て忘れる。

今の体であるからこそ、垣間見た想い。

月は廻り、姿を変える。

ひとつとして同じものは有り得ない。

それは、全てにおける理。

 

 

 

 

儚いからこそ、愛おしく想う。

泡沫だからこそ、切なく恋うる。

 

 

 

泡沫であることを織っていたから、

泡沫にならぬよう、と強く強く願っていた。

 

 

 

想いは伝い、大地へと還る。

願いは望みへと変わり、

泡沫は消え、水面へ空を映した。

 

 

 

 

 

END

 


お礼状

いつもいつもステキなイラストやら物語を下さるCherry Blossomsの紅桜さんから頂きました。

…ハッキリ言ってどうしてお話を書いてもらえるようになったのかの経緯が思い出せません(爆)

凄い昔の事なのにわざわざ思い出してくださってこんな素敵なお話を下さった紅桜さん…本当にありがとうございます。

もう何度お礼を言っても足りないくらいです。

こんな超絶わがままの私メの為に…ウウッ!

足を向けてなんて寝れません!

 

静夜と太真のお話でした。

静夜には他の連中同様に過去の記憶がありません。

でもこういうときにふと垣間見るのかもしれませんね。

太真の思いが切なすぎです。

金蝉も凄く太真のことを大切にしてくれて、太真も金蝉のことを凄く思っているのがひしひしと伝わってきました。

…ああ、もういろいろ書くのは野暮というもんです!

ぜひ読んで感動してください!

最後に紅桜さんの静夜! かっこいいよ貴女は!!!

まさに私の静夜像そのまま!!

紅桜さん!本当にありがとうございました!!!

 

2004.3.7

 

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