朝早いクリスタリウムは、いつもよりもその静けさを増している。
その静けさの中をクラサメはトンベリと共に足を進めていた。
従者であるトンベリの歩調に合わせるようにゆっくりと歩いていると、程なくして数多い本棚の奥にひとつの扉が見えてきた。
目的の部屋の扉だ。
扉の前にぴたりと止まる一人と一体。
果たして、いるだろうか。
そう考えながらもクラサメは軽く扉を手の甲で叩き音を立てる。
ノック音から一拍。
扉の向こうから足音が聞こえてきた。
パタパタと近づいてくる足音を聞いてクラサメとトンベリは顔を見合わせると、少し安堵したように表情を緩めた。
足音は扉で止まり、扉が開かれる。
「クラサメ、おはよう」
開いた先には、笑顔があった。
「おはよう、」
「うん。トンベリもおはよう」
いつもと変わらぬの声を聞きクラサメが返事すると、ははにかみ今度はトンベリへと視線を向け、言葉を交わす。
小さく頷きの言葉に返事を返すトンベリを見ては緩む表情をなるべく押さえつつ、扉を大きく開けた。
「どうぞ」
「失礼する」
部屋の主に招かれクラサメとトンベリは部屋の中へと入っていった。
花の日
クリスタリウムの司書に与えられた部屋は現在の主であるの好きなように模様変えされている。
仕事用の椅子と机、来客用のテーブルとソファ。少し大きめの本棚と小さな食器棚。
前訪れた時とすんぶも変わらない部屋を視線だけで見渡してからクラサメは自分の前を進むの背中を見た。
は一目散に自分の机へと足を向けていた。
「クリスタリウム、もう人いる?」
クラサメに背中を見せながら問いかける。
なんとなく、話していないと変に落ち着かない。
どこか浮ついているように見られるのが嫌で、は取り留めもない事を聞いていた。
この時期だ、別に浮ついていてもおかしくはないのだろうが、それをクラサメに悟られるのは少々悔しい。
それに、原因が解らない。解らないのに落ち着かないのはおかしい。
数年前からずっとこの調子だ。
いつか、解る時が来るのだろうか。
「ああ、数名ほどだがいたな。勤勉で良い事だ」
への返事をしつつ、クラサメもどこか落ち着かない心地がしていた。
時期が時期な故にその空気が落ち着かなくさせているのだろうと思っていたが、まだ人も少ないこの時間にそう言う空気になるのもおかしい。
動揺に近い落ち着かなさをクラサメはここ数年ずっと感じていた。
原因が解らないのだ。解らないのに落ち着かないとは、どう言う事なのだろう。
「あんまり根を詰めるのも良くないけど…まあのんびり程々が一番かな」
いつか、解る時が来るのだろうか。
クラサメはの背中を見つめつつそう考えていた。
は机の前で止まり、手を伸ばす。
伸ばした指先には、水が浅く入った細い円柱型のグラス。
グラスの中にあったそれを優しく丁寧に取り出すと、知らずのうちに笑みがこぼれる。
しかしに我を取り戻すと、きゅっと表情を引き締めてクラサメへと向き直った。
柔らかく両手でそれを持ちクラサメへと近付く。
本人は引き締めたと思っている表情はクラサメから見れば嬉しそうに緩んでいた。
お互いの手が届く範囲まで来た時、
「はい」
は両手で持っていた物をクラサメ差し出す。
七分咲きの、花。
「今年もお互い一番乗りだね!」
暢気に声を弾ませるが持つその花を見た瞬間、クラサメは目を丸めを驚かせた。
を驚かせたクラサメの瞳は次第に困惑の色を表し視線を動かした。
そんな彼の表情を見て、はまさかと恐る恐るクラサメの動かした視線を目で追う。
視線の行きついた先は、クラサメの利き手。
そこには一輪の花がかすかに揺れていた。
がクラサメへと見せた花と、寸分違わぬ花が。
二人は目を丸め、言葉が途切れてしまった。
途切れた間から、沈黙が流れ出て、二人を包みこむ。
「―――――ぷふ」
暫くして。
小さな笑いを含んだ吐息が重いとさえ感じさせた沈黙に亀裂を走らせた。
クラサメは思わず顔を上げると、が笑いを噛み殺そうとして必死に体を震わせている姿が見えた。
なんとかして笑うのを堪えているが、表情はしっかりと笑みを浮かべている。
そんなを見て、クラサメもようやく小さく溜息を吐く事が出来た。
「またか…」
「ま、まただよ」
クラサメに答えるためには堪えていた口を開く。
笑いを含んでいる声は震えていた。
「も、いい加減慣れたかと思ったけど、やっぱり駄目だ。おかし…っ」
とうとう堪えきれなくなったのか、は声を立てて笑い出した。
花を持って笑うを見て、クラサメはもう一度自分の花を見る。
初めてに花を渡した日から、どうしたことかクラサメとが渡す花はいつも同じだった。
偶然被ったのだと思っていたのは最初のうちだけで、むしろ被っていない方が少ない事に気付いたとき、二人の間に戦慄が走ったのは言うまでもない。
「ほんと、どうして、毎年毎年、被るん…だろう、ねっ?」
は体を震わせながらもクラサメに声を掛けてきた。
笑いの衝動が少なくなってきたらしい。
声は未だに震えているが、おかしそうに自分を見上げてくるへクラサメは軽く首を横に振った。
「知るか。―――俺はただ、お前に似合いそうだなと思ったものを選んだだけだ」
を思い浮かべて彼女に似合う花を見つける。
本当にそれだけだ。
そしてそれは、友人であるカヅサやエミナも同じ。
それなのに、二人とは被った事があまりない。
不思議に思う事はあるが、それでもクラサメは花を変える事はしない。
に似合う花を贈るだけなのだから。
「私だって、クラサメに似合いそうな花を選んでるだけなのに」
先程の笑顔から一転。
は唇を尖らせた。
べつに被らせたくて被らせているわけではない。
それなのに、被る。
他の友人二人とは滅多に被らないのに、何故かクラサメとは被るのだ。
前以って聞けばいいのだろうが、相手の驚く顔と嬉しそうな顔を見るのが楽しみなのに、それでは面白味がない。
クラサメに似合う花を贈っているだけなのだから。
それでも毎年、違う意味で驚いてはいるが。
「まあでも」
尖らせた唇を元に戻し、はもう一度クラサメへと花を差し出す。
彼女の表情は笑顔を浮かべていたが、先程までの楽しげなものではなくどこか穏やかで嬉しそうな笑顔だった。
「こういうのもいいんじゃないかな。楽しいし、嬉しいし」
「―――そうだな」
クラサメはの手にある花に手を伸ばし指先で花の茎を掴み、彼女の花を受け取った。
「ありがとう、」
そして、受け取った手とは逆にある、花を持つ手をへと動かす。
受け取ろうと手を動かそうとするを、
「そのままで」
そう言い彼女の動きを止めてクラサメの指はの耳へと近づいていく。
耳を隠している髪を耳の上へと乗せるようにかき上げた。
の体が一瞬強張ったが、すぐに硬直を解いたのは、信頼されてるからだろうか。
かき上げた髪の流れに沿うよう自分の花をの耳の上に飾り、クラサメは手を離した。
の髪に飾られた花は予想通り、とてもよく似合っていた。
「あ…りがとう、クラサメ」
いつもとは違う行動をしたクラサメに驚いているのだろう。
少し動揺した雰囲気を醸し出しつつもそれでも、礼を言うを見て。
クラサメは表情を和らげた。
目尻がかすかに下がり、いつもは硬質のエメラルドを連想させる緑の瞳が柔らかく光っている。
口はマスクが邪魔をして見ることは叶わないが、それでも緩やかにたわんでいることは確かなはずだ。
はクラサメの表情を見てぎゅっと胸が捕まれた。
しかし、それは不快なものではなくとても愛おしいもののように感じる。
クラサメが滅多に浮かべることがなくなった優しい表情をはとても愛しく思っている。
彼のこの優しい表情のためならば、きっと自分はなんだって出来るだろう。
は意識しない心の内でそう思いながら、耳の上で揺れる花を感じ喜びを噛みしめるように微笑み、花に触れた。
ぎゅっと唇は結ばれ一文字の形になっている。
しかし、その端はかすかに上がっていた。
こみ上げてくる何かを耐えるように噛みしめていた唇はやがてゆっくりと綻んで一文字の唇が開かれていき、目は細くなっていく。
ゆるやかに蕾が花開くように表情を変え、最後にははにかんだ喜びの笑顔が彼女の表情を彩った。
目元を淡く染めて先ほど自分が贈った花に触るその姿を見て、クラサメは胸に何かがこみ上げてくるのを確かに感じていた。
いつの頃からか、花を贈るとはこうした笑顔を浮かべるようになった。
初めて見る笑顔にクラサメは驚いていたものだが、いつの間にかこの表情が見れるこの日を心の奥底で待っていた。
この笑顔が見れるのは自分だけだ。
そう思うとなぜか心が満たされるような気持ちになり、それと同時にクラサメは自身も知らぬ心の奥底で強く思う。
この笑顔のためならば、きっと自分はなんだって出来るだろうと。
「似合う?」
喜びに花を咲かせる笑顔で愛しげに優しく花に触るを見て、クラサメは頷いた。
「ああ。よく似合う」
「トンベリにもきちんとあるからね。はい」
クラサメから贈られた花を飾ったままはしゃがんで小さなブーケをトンベリの前へと差し出す。
小さな小さなブーケはトンベリの片手で持ってちょうど良い大きさだった。
トンベリは一瞬主を見上げると、主は小さく頷いて見せた。
主の許可を得てトンベリはいつも持っている包丁をしまうと、からブーケを受け取る。
トンベリの片手に収まる小さなブーケを見ては表情を緩ませた。
「毎年、この日だけは包丁を持たないトンベリが見れるから、楽しみなんだよね」
それが自ら渡したブーケだというのだから、その楽しみと喜びは増すばかりだ。
トンベリを見てにこにこと頬を緩ませると、はっきりとした表情はないがそれでも嬉しそうに尻尾を揺らすトンベリ。
双方の喜びに満ちた顔を見て、クラサメの口元は綻んでいた。
Fin
あとがき
花の日、メインでした!
司書がサラッと言ってますが、この日クラサメ共々最初に花を渡したのがお互いです。
一番乗りです。
そして、同じ花ですよ。
お互いがお互いに合う花を探したところ同じ花が選ばれたと。
クラサメが司書に花を飾るシーンは最初からあったんですが、微妙に気恥ずかしくなりました。
そのせいか、うまく文章書けてないかも(いつものことだよ)
そのあとの二人の内心描写の方が恥ずかしいと思ったのに…。
ただ、花を贈って友人以上恋人未満を書こうと思っていたけど、それだと短くなると思ってどうしようと思ったところに内心描写が浮かんできたので書いてみました。
こんな事思ってますが、二人ともまだまだ自覚してないです。
あくまで無意識での考えです。
2012/02/13